18時半を少し過ぎた頃のこと。ゾフィー付きのメイドが厨房で、料理長と話をしていた。「え? 今、何と言ったんだ?」料理長が怪訝そうな表情を浮かべる。「だから今夜の食事、オリビアにはスープとパンだけを出すようにって言ってるのよ」仮にも伯爵令嬢であるオリビアを呼び捨てにするこのメイドはゾフィーから格別に可愛がられている。先程オリビアを睨みつけていたのも、このメイドだ。彼女はゾフィーに気に入られているのをいいことに、使用人の中で尤もオリビアを軽視していたのだ。「これでも俺は、この屋敷の厨房を任されているんだぞ? その俺に使用人以下の料理をオリビア様に出せって言うのか?」料理長としてプライドが高い彼は、この提案が面白くないので不満げな顔を浮かべる。「そうよ、これは奥様からの命令なの。今日、オリビアは生意気な態度を奥様にとったのよ。その罰として、今夜の料理はスープとパンだけにするようにって命じられのよ」本当はそんなことは言われてなどいない。けれど、このメイドは点数稼ぎの為に嘘をついた。1人だけ貧しい食事を与えて、身の程を分からせようと企んだのだ。「奥様の命令なら仕方ないか。分かった、スープとパンだけをオリビア様に提供すればいいんだな?」「ええ、そうよ。分かった?」「何処までも横柄な態度を取るメイドに、料理長は素直に従うことにしたのだった。そして、その様子を物陰で見つめていたのは専属メイドのトレーシー。(た、大変だわ……! オリビア様のお食事が……!)トレーシーはメイドと料理長が交わしたやりとりの一部始終を目撃すると、踵を返してオリビアの元へ向かった――****「大変です! オリビア様!」トレーシーはオリビアの部屋へ駈け込んできた。「トレーシー、そんなに慌ててどうしたの?」「それが……」トレーシーは自分が厨房で見てきたこと全てを説明した。「ふ~ん……そう。義母は、自分のお気に入りのメイドを使ってそんな真似をしたのね?」「どうなさるおつもりですか? オリビア様」まだ年若いトレーシーはオロオロしている。「そうね……」今迄のオリビアなら家族に嫌われたくない為に、どんな処遇も受け入れただろう。けれど憧れのアデリーナに指摘されて目が覚めたのだ。『何故、我慢しなければならないの? 家族に媚を売って生きるのはもう、おやめなさいよ』
「それではトレイシー、行ってくるわね」自転車にまたがったオリビアが、外まで見送りに出てきたトレイシーに笑顔を向ける。「はい、お気をつけて行ってらっしゃいませ。必ずオリビア様に言われた通り、実行したしますのご安心下さい」「ありがとう、よろしくね」オリビアは黄昏の空の下、自転車に乗って町へと向かった。「お気をつけてー!」トレイシーは姿が見えなくなるまで手を振り続けた――**** オリビアが町へ到着した頃には、すっかり夜になっていた。ガス灯が照らされ、オレンジ色に明るく照らされた町並みは、いつも見慣れた光景とは違い、新鮮味を感じられる。それでもまだ時刻は19時になったばかりなので、多くの老若男女が行き交っている。「すごい……夜の町って、こんなに賑わっていたのね」自転車を押しながら、オリビアは目当ての店を探して歩く。彼女が探している店は、最近学生たちの間で話題になっている店だった。「女性一人でも気軽に入れる店」を謳い文句に、まだ若い女性オーナーが経営している店だと言う。『内装もお洒落で、女性向きのメニューが豊富』と、女子学生たちが騒いでいたのを耳にしたことがある。その時から機会があれば一度、行ってみたいと思っていたのだ。「確かお店の外観は、レンガ造りの建物に紺色の屋根って言ってたわね。そして店の名前は……」すると、前方に赤レンガに紺色屋根の建物を発見した。入り口には立て看板もある。「あれかもしれないわ!」オリビアは自転車のハンドルを握りしめると、急ぎ足で向かった。「この店だわ……『ボヌール』。間違いないわ」店の名前も事前情報で知っていた。窓から店内を覗き込んでみると20人程の客がいいて、全員オリビアと同年代に思えた。客層が若いと言う事に後押しされたオリビア。早速店脇に邪魔にならないように自転車を止めると、緊張する面持ちでドアノブを回した。――カランカランドアベルが鳴り響くと中にいた何人かの客がこちらを振り向き、緊張するオリビア。けれどすぐに視線が離れたので、ゆっくり店内に足を踏み入れた。店内にいた客は男女合わせて半々というところだった。けれど、店に1人で来たのはオリビアだけのようだった。(え? 女性一人でも気軽に入れるお店と聞いていたけど……何だか思っているのと違うわ)しかし、今更店を出ることも出来ない。オリビアは覚
「あ、あの……?」見覚えが無く、首を捻ると青年は笑顔になると向かい側の席に座って来た。「君、1人でこの店に来たのかい? 1人で食事なんて味気ないだろう? 俺も1人なんだよ。良かったら一緒に食事しよ?」「い、いえ。結構です」身の危険を感じたオリビアは首を振る。「まぁ、そう言わずにさ。食事なら俺が御馳走してあげるから」そして男性客は突然、左手首を掴んできた。「え!? ちょ、ちょっとやめてください!」手を振り解こうとしても、力が強すぎて敵わない。周囲にいた客は騒ぎに気付いていも、誰も助けようとはしない。その時――「お待たせいたしました」ウェイターが突然大きな声をかけてきた。「お、おい! いきなり驚かすなよ!」男性客が非難すると、ウェイターは鋭い眼差しで男性客を睨みつける。「俺はこの店のオーナーで、彼女の知り合いだ。出入り禁止にされたくなければ、勝手な真似をしないでもらおうか?」「う……わ、分かったよ!」その目つきがあまりにも鋭かったので、男性客はたじろぎ……周囲の冷たい視線に気づいた。「く、くそっ!」バツが悪いと感じた男は逃げるように店を飛び出して行ってしまった。「ふん。所詮、いいとこの貴族だな。あれくらいのことで逃げ出すとは」扉を見つめ、ため息をつくウェイターにオリビアは礼を述べた。「あ、あの……ありがとうございます。おかげで助かりました」「こんな目立たない席で、1人でいると今みたいなことになるかもしれない。カウンター席に来た方がいいな。こっちに来いよ」それはおよそ客に使うとは思えない、乱暴な口調だった。「はい……分かりました」青年に言われるままにカウンターに連れられてきたオリビアは席に着いた。「それで、何にするんだ?」「え? ええと……ディナープレートをお願いします」「分かった」ウェイターは頷くと、カウンターの奥に消え……少し経つと再び戻ってきた。「すぐに作るように注文入れてきた。だから食べ終えたらさっさと帰れよ。大体、何で女1人で来るんだよ」「え? で、でもこのお店は女性1人でも気軽に入れるお店って聞いていたんですけど? しかも女性オーナーだって……それなのに、あなたがオーナーってどういうことですか?」「……あぁ、それでか」何処か納得した様子で青年は頷き、続けた。「それは、あくまで朝から夕方までの
一方その頃―― フォード家ではオリビアを除く全員がダイニングルームに集まり、席に着いていた。そして給仕たちにより料理が運ばれ、それぞれの前に置かれていく。そのどれもが見事な物だった。「ふむ。今夜の料理も素晴らしいな」ランドルフが満足そうに頷く。彼は美食家であり、料理に一切の妥協を許さないことで貴族の仲間同士に知れ渡っているほどだったのだ。「ええ、そうね」「今夜も美味しそうだ」「楽しみだわ~」家族3人も嬉しそうに料理を見つめていたその時。「……おい、何だ? その粗末な料理は」ランドルフがまだ空席のオリビアのテーブル前に置かれた料理を見て、眉をひそめる。置かれているのは具材の無いスープに、パンのみだった。「フォード家で、このような貧しい料理を出すとは……一体どういうことだ!?」例え冷遇されている娘とはいえ、美食家のランドルフにとって目の前で粗末な料理が出されることは許し難いことだったのだ。ランドルフの怒声に給仕のフットマンは震えあがった。「あ、あの……そ、それは……料理長の指示でして……」「何だと!? では、その料理長を今すぐ呼んで来い!」「はいぃっ! た、直ちに!」フットマンは駆け足で厨房へ向かった。「……全く、いったいどういことだ? 私の前であのような料理出すとは不快い極まりない」苦虫を潰したような顔になるランドルフ。「ええ、そうね。一体料理長は何を考えているのかしら?」まさか自分のメイドの仕業とは思いもしないゾフィーは首を傾げる。「不愉快な料理だな」長男のミハエルは顔をしかめ、シャロンは無言で自分の髪の毛をいじっている。「お待たせいたしました!!」そこへ先程のフットマンが、料理長を連れて戻って来た。「あ、あの……旦那様。私に何か御用があると伺ったのですが……」ここへ来るまでに、ある程度のことは聞いて来たのだろう。青ざめた顔の料理長が恐る恐る尋ねてきた。「お前が、あの料理を出すように命じたのか?」鋭い口調でランドルフが尋ねる。「はい、そうですが……」「何故、私の前であのような粗末な料理を出したのだ!」「そ、それは奥様付きのメイドが言ってきたのです! 本日、オリビア様が奥様に失礼な態度を取ったので、罰として夕食はパンとスープのみにするようにと! 奥様がそのように命じられたそうです!」火の粉が飛ん
「あ、あ、あの……わ、私に何か御用でしょうか……?」全身をガタガタと震わせ、青ざめたメイドが怯えた様子で現れた。「お前か! 私の前にくだらない料理を出させたのは!」「ドナッ! よくも私の名前を使って、勝手な振舞をしてくれたわね! いったいどういうつもりなの!?」ランドルフとゾフィーの怒声がメイドのドナに降り注ぐ。「あ……そ、それは……」すっかり涙目になっているドナ。皆に喜ばれると思っての行動が裏目に出てしまうとは思わず恐怖で震える。特に可愛がってもらえていたゾフィーからの叱責はあり得ないものだった。「さっさと答えろ!」「答えなさい!!」2人の怒りの声は、しんと静まり返ったダイニングルームに反響した。「も、申し訳ございません……ゾフィー様に失礼な態度を取った……オリビア様に嫌がらせをして……ご自分の態度を改めて貰おうかと思って……」ガタガタ震えながら答えるドナ。すると、フッとミハエルが笑った。「まぁ……目の付け所は悪くなかったかもしれないが……それにしては、やり方を間違えたな。我々の前で、こんな粗悪な料理を出させたのだから」ミハエルもまた、ランドルフの美食家の血を色濃く引いていたのだ。「全くだ……よくも、我等美食家として名高いフォード家の泥を塗ってくれたな!」「そう言えば、オリビエはどうしたのかしら?」自分に火の粉が飛んでくることを恐れたゾフィーがオリビアの話題を口にした。「お取込み中、申し訳ございません!」そこへメイドのトレイシーが現れた。彼女は今まで様子を伺い、現れるタイミングを見計らっていたのだ。「何だ、この騒々しい時に!」舌打ちするランドルフ。「はい、私はオリビア様の専属メイドです。実はオリビア様は、今夜の夕食で御自身にはパンとスープのみしか与えられないことを偶然知ってしまいました。まさか美食一族として名高いフォード家でそのような料理しか出されないことにショックを受けられたオリビア様は、町の外に外食に行かれてしまったのです。粗悪な料理を口にするくらいなら、外の食事の方がずっとまともだからとお話されておりました」「な、何だと!? フォード家よりまともだと!? あのオリビアがそんなことを言ったのか!?」「そんな! 下町の料理よりも私の腕前の方が優れているはずなのに!」この話に美食家のランドルフ、自分の腕に自信
フォード家でメイドがメイドがクビにされる騒動が起こっている一方、オリビアは店の料理を堪能していた。「……美味しい! このお店の料理……家の料理と同じくらい……いえ、それ以上に美味しい!」オリビアは美味しそうな表情で、スパイスの効いた肉料理を口に入れた。「そうか、気に入ってくれたか。フォード家の令嬢にそう言ってもらえるのは光栄だな」カウンター越しからマックスが笑顔になる。「私が料理を気にいると、何かあるのですか?」「ああ、大ありだ。何しろフォード家といえば、美食貴族ということで有名じゃないか。それに現当主は、たまに食に関するコラムを書いて新聞に掲載されたりしているぞ?」「え!? 何ですか? その話」「自分の家のことなのに知らないのか?」「い、いえ。父が料理のことに関しては、中々こだわりがあるのは知っていましたが……」だからこそ、今夜粗末な料理が自分に出されることを知ったオリビアは外食をすることにしたのだ。料理に関してプライドの高い父親が、パンとスープのみの食事を見過すはずが無いと思ったからである。だが、まさかコラムまで書いていたとは思いもしていなかった。「特に今の当主が訪れる店は、味に間違いはない。必ず儲かる店になると言われているくらいだ。実際その通りだし」「そんな話……少しも知りませんでした。驚きです」「驚くのは、むしろこっちだ。オリビアはフォード家の娘なのに、そんなことも知らなかったのか?」マックスは肩をすくめた。いつの間にか、彼は「オリビア」と呼んでいる。「私……家族とは、うまくいってなくて疎外されているんです。会話に入ることもできません。顔を合わせるのは食事のときくらいなんです。それでも居心地が悪いので1人遅れて食卓について、一番早く席を立っています。だから家族のことを良く知らなくて……」「ふ〜ん。それで居心地が悪すぎて、今夜とうとう1人でバーに来たってわけか?」「いえ。そういう理由ではありませんが……ただ、何となく今夜は外で食事をしてみたかったんです」まさか義母に従順な態度を取らなかった罰として、夕食はパンとスープしか出してもらえないから……とは口に出せなかったのだ。(私自身、夜1人で外食するほど自分が行動的だったとは思わなかったわ。でも、これもきっとアデリーナ様のおかげね)笑顔のアデリーナの姿がオリビアの脳裏を
――20時半 食事を終えたオリビアは見送りするマックスと一緒に店を出た。「それで自転車はどこに止めてあるんだ?」マックスが周囲を見渡す。「ここに止めてあるわ」オリビアは店の路地脇をに置かれた自転車を指さした。「へ〜これがオリビアの自転車か。女で乗っているのは本当に珍しいよな。すごいじゃないか」「そう? ありがとう」いつの間にか、2人は砕けた口調で話をするまでになっていた。「もう遅い時間だが、家は近いのか?」「近いわよ。せいぜい自転車で10分程の距離だから。でも歩きだと20分はかかるけど」「へ〜それは便利だな。だったら、ちょくちょく来店出来るよな?」「え?」その話に、オリビアはマックスの顔を見上げる。「美食家のフォード家の御令嬢が足繁く来店してくれれば店の評判も上がるからな。その分サービスはするし、店にいる間は悪い男が絡んでこないように俺が見張っているから」「あ……ひょっとして私をカウンター席に移動させたのも、食事の間ずっと傍にいたのも、そのためだったの?」「ああ、そうさ。何だよ、今頃気づいたのか?」マックスが肩をすくめる。「ええ、……ごめんなさい。気づかなくて」「そんな謝ることはないって。でも、本当冗談抜きでたまに来店してくれるか? 新メニューを考えておくからさ」「まさか、この店の料理ってマックスが考えたの!?」「当然だろう? 俺はこの店のオーナーなんだぞ? 自分で考案して、レシピを雇った料理人に作らせている。それで俺はウェイターをして、悪い客がいないか見張ってるんだ。何しろ、昼間の時間帯は姉の店だから評判を落とすわけにはいかなくてね」「そうだったの……」(この人、口調も態度もどこか乱暴だけど……いい人みたい)「おい、心の声が漏れているぞ」「あ、ご、ごめんなさい!」まさか口に出していたとは思わず、オリビアは顔を真っ赤にさせた。「ハハ、別に謝らなくていいって。自分でも貴族らしくないと思ってるんだ。それじゃ気をつけて帰れよ。今度は婚約者も連れてくればいいんじゃないか? そうすれば安心だろうし、売上にも貢献してもらえそうだ」「え? 婚約者がいること、知っているの?」「あぁ、まあな。2年の女子学生の中で一番の才女だということで、試験結果が張り出される度、ギスランが自慢していたからな」「ギスランが私を自慢……?」
自転車に乗って、僅か10分ほどで屋敷に戻ってきたオリビア。扉は案の定閉まっていたので、鍵を開けて中に入ると自室へ向かった。「お帰りなさいませ、オリビア様!」部屋に戻ると、室内で待っていたトレーシーが駆け寄ってきた。「ただいま、トレーシー。私が出かけた後、何も変わりなかったわよね?」「いいえ、ありました。事件発生です!」オリビアの質問に、トレーシーは大きく頷く。「え! 事件? 何があったの!?」「はい。夕食時に不在のオリビア様の席にパンとスープが置かれたことで旦那様が激怒し、ついでにニコラス様と奥様も怒って、主犯格のメイドが1人クビになりました」トレーシーは余程興奮しているのか、一気にまくしたてる。「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて頂戴。状況がよく分からないから順を追って説明してくれる」「あ……申し訳ございません。ではもう一度説明させていただきますね」そこで、トレーシーは今夜の食事会で起こった出来事を細かく説明した――****「……そう。そんなことがあったのね? 確かにちょっとした事件ね」オリビアはトレーシーが淹れてくれたお茶を一口飲むと、口元に笑みを浮かべた。「はい、それはすごい光景でした。まさか旦那様がオリビア様に出された食事の件で、あれほど激怒されるとは思いもしませんでした。でもオリビア様が仰った通りになりましたね」「そうでしょう? 父は食に関してうるさいから子供の頃はしょっちゅう料理長が入れ替わっていたの。どうも料理が気に入らなくてクビにしていたみたい。そのことを思い出したのよ。何しろ食事に関して父は、とてもプライドが高いから」「確かに使用人である私達の料理も豪華ですね」納得したかのようにトレーシーが頷く。「だけど、まさかあのメイドがクビになるまで追い込められるとは思わなかったわ」「彼女、旦那様の前に連れてこられたとき真っ青な顔色でガタガタ震えていましたよ。奥様にまで怒鳴られていい気味でした。大体前からオリビア様に嫌がらせをしていて気に入らなかったんですよ」「そうね。今までの私なら、あのまま食事の席に着いて、ことを荒げないようにしていたでしょうけど……もう媚を売らないことにしたの。いくら私が皆に好かれるように愛想を振りまいても、何も変わらなかったわ。だからこれからは自分の思うように生きることに決めたのよ」そう言
「ほう~俺が決闘内容を決めて良いというのか? 随分と余裕があるじゃないか?」ディートリッヒの挑戦的な言葉に、アデリーナはフッと笑う。「一応貴方はまだ私の婚約者ですからね。せめてもの恩情です。さ、どれになさいますか? 馬術、剣術? それとも学力試験で競い合いましょうか? カードで勝負するのも良いかもしれませんね?」「な、なんて生意気な女だ……いいだろう、なら俺から決闘方法を選ばせてもらおう」「ええ、どうぞ」「そうだな、なら……」ディートリッヒは偉そうな態度を取ってはいるが、心中は全く余裕が無かった。彼は心底、今のアデリーナに怯えていたのだった。(一体、アデリーナの堂々とした態度は何だっていうんだ? いや、違うな。この女は昔からふてぶてしい態度を取り続けていた。いつも何処か俺を見下したような態度を取って全く可愛げが無い生意気な女だった。だから俺は外見は可愛くて、頭が空っぽそうなサンドラにちょっと声をかけただけなのに……)自分の腕にしがみつき、すがるような目を向けてくるサンドラをうんざりした気分でチラリと見る。本当は、とっくにサンドラに飽きてしまって今すぐ縁を切りたい位なのに、世間では恋人同士と認識されているのでそれすら出来ない。「ディートリッヒ様、私どんな勝負でも貴方が勝てるって信じてますから」猫なで声を出すサンドラに、ディートリッヒは心の中で舌打ちする。(チッ! 人の気も知らないで、いい気なもんだ。サンドラがこんなに馬鹿だとは思わなかった。自分の立場もわきまえず、いい気になりやがって。周囲に俺と恋人同士になったと言いふらし、いつでもどこでも付きまとってくるから、切りたくても切れやしない。元はといえばサンドラのせいで俺がこんな目に遭っているっていうのに)呆れたことに、ディートリッヒは自分の浮気を全てアデリーナとサンドラのせいにしていたのだ。「どうしたのです? ディートリッヒ様。早く決闘方法を決めて下さりませんか? これ以上無駄な時間を費やしたくはありませんので、もし決められないのなら私が決めてしまいますよ?」アデリーナの催促に増々焦りが募る。「う、うるさい! 何が無駄な時間だ! こっちはなぁ、どんな決闘なら少しでもお前が有利に戦えるかって、さっきからずっと考えているんだよ!」「あら、そうですか? それはお気遣いありがとうございます。
「決闘だって!?」「侯爵令嬢が決闘を申し出たわ!」「これは大事件だ!」集まる学生たちは、目の色を変えて大騒ぎを始めた。赤い髪を風になびかせ、学生たちの好奇の視線を浴びるアデリーナの姿はオリビアの心を震わせた。(アデリーナ様……素敵! 素敵すぎるわ! あの凛々しいお姿……まさにこの世の奇跡だわ……)アデリーナの姿に感銘を受けたのはオリビアだけではない。女子学生たちの見る目も変わってきていた。「何だか……ちょっと素敵じゃない?」「ええ、誰が悪女なんて言ったのかしら」「私、好きになってしまいそう……」余裕の態度のアデリーナに対し、ディートリッヒは青ざめていた。けれどそれは無理も無い話だろう。決闘を申し込んできたのは女性、しかも婚約者なのだから。「ア、アデリーナッ! お前、本気で俺に決闘を申し込んでいるのか!?」「ええ、そうです。あなたのせいで私の大切な友人が手を怪我したのですから当然です!」その言葉にオリビアは衝撃を受けた。(え!? まさか決闘って……私の為だったの!?)一方、面食らうのはディートリッヒ。「何だって!? 俺は誰も怪我させたりなどしていないぞ! 言いがかりをつけるな!」「確かに、直接手を下したわけではありませんが……ディートリッヒ様! 貴方のせいで彼女が怪我をしたのは確かです! それに手袋を拾った以上、決闘の申し込みを受けて頂きます!」「くっ……」大勢のギャラリーに見守られ、逃げ場がないディートリッヒ。「そ、それじゃ……勝者にはどんな得があるんだ?」「そうですね。もしディートリッヒ様が私に勝てば、どんな命令にも従いましょう」「そうか。ならもし俺が勝ったら地べたに這いつくばって、サンドラに詫びを入れて貰おう」「ディートリッヒ様……」サンドラが頬を赤らめ、周囲のざわめきが大きくなる。「おい、聞いたか? 謝れだってよ」「そんな……侯爵令嬢が男爵令嬢に謝るなんて」「これは屈辱だな」「ええ、良いでしょう。地べたに這いつくばるなり、何なりとしてあげますわ。それどころか1日、サンドラさんのメイドになって差し上げてもよろしくてよ?」「ほ、本当ですか? 本当に……私のメイドになってくれるのですね?」サンドラが図々しくもアデリーナに尋ねてくる。「ええ、ただし私が負けたらですけど?」毅然と頷くアデリーナに、ディート
それは昼休みのことだった。親友のエレナが今日は婚約者のカールと昼食をとるということで、オリビアは1人でカフェテリアへ向かうため、他の学生たちに混じって渡り廊下を歩いていた。中庭近くに差し掛かったとき、大勢の学生たちが集まって何やら騒いでる様子に気付いた。(一体何を騒いでいるのかしら)少し気になったが、そのまま通り過ぎようとしたとき学生たちの会話が耳に入ってきた。「またアデリーナ様とディートリッヒ様か」「本当に騒ぎを起こすのが好きな方ね。さすがは悪女だわ」「でも、あれじゃ文句の一つも言いたくなるだろう」「え!? アデリーナ様!?」オリビアが反応したのは言うまでもない。「すみません! ちょっと通して下さい!」群衆に駆け寄り、人混みをかき分け……目を見開いた。そこには例の如く、ディートリッヒと対峙するアデリーナの姿だった。当然ディートリッヒの傍にはサンドラがいる。そしてディートリッヒはいつものようにアデリーナを怒鳴りつけていた。「いい加減にしろ! アデリーナッ! 毎回毎回、俺達の後を付回して! 言っておくが、今度の後夜祭のダンスパートナーの相手はお前じゃない! ここにいるサンドラと決めているからな! いくら頼んでも無駄だ! 覚えておけ!」「は? 何を仰っているのですか? 私がディートリッヒ様の前に現れたのは、まさか後夜祭のパートナーになって欲しいと頼みに来たとでも思っていたのですか?」両手で肘を抱えるアデリーナは鼻で笑う。「何だよ。違うっていうのか?」「ええ、違いますね。大体ディートリッヒ様が私のパートナーになるなんて冗談じゃありません。こちらから願い下げです」「……はぁっ!? な、何だとっ! 今、お前俺に何て言った!?」「もう一度言わなけれなりませんか? 仕方ありませんね……では、言って差し上げましょう。ディートリッヒ様と一緒に後夜祭に行くぐらいなら、カカシを連れて参加したほうがマシですわ」すると周囲の学生たちが一斉にざわめく。「おい、聞いたか?」「まぁ、カカシですって?」「よもや、人ではないじゃないか」「お、おかしすぎる……」「アデリーナ様……」オリビエも驚きの眼差しでアデリーナを見つめていた。「アデリーナッ! よりにもよってカカシの方がマシだと!? お前、一体なんてことを言うのだ! 冗談でも許さないぞ!」
大学へ行く準備を済ませ、オリビアエはエントランスへ向かった。「おはようございます。オリビア様」「これから大学ですか?」「お気をつけて行ってらっしゃいませ」すれ違う使用人たちが丁寧にオリビアに挨拶をしていく。これはオリビアにとって、ちょっとした驚きだった。(まさか、ここまで周りが変わるなんて本当に驚きだわ。今まで皆挨拶どころか、すれ違いざまに悪口を言う使用人が多かったのに。やっぱりアデリーナ様の言う通り、我慢する必要は無かったということよね)エントランスに到着したので、オリビアは上機嫌で扉を開けた。 すると目の前に馬車が待機しており、笑顔のテッドの姿がある。「まぁテッド。一体どうしたの? まさか私を馬車で送ろうと思って待っていたの?」「はい、そのまさかです。今朝は昨夜降り続いた雨のせいで道がぬかるんでいます。自転車で通学するのは大変かと思い、お迎えにあがりました」ニコニコ笑顔のテッド。「送ってもらって良いのかしら? 私の他に今日は誰か馬車を使うかもしれないのに?」「馬車はあと2台ありますし、御者も2人います。俺がオリビア様をお乗せしても大丈夫ですよ」「それはなんとも頼もしい言葉ね。だったら今日も乗せてもらうわ」オリビアは早速馬車に乗り込んだ――**** 馬車が大学敷地内にある馬繋場に到着した。「送ってくれてどうもありがとう」馬車を降りると、テッドに礼を述べるオリビア。「いえ、お礼なんて結構です。俺の仕事ですから。それではまた帰りの時間にお迎えにあがりますね」「ありがとう。それじゃ行ってくるわ」オリビアはテッドに手を振り、校舎へ向かった。 「オリビアッ!」廊下を歩いていると、背後から大きな声で名前を呼ばれた。「あら、ギスラン。おはよう。珍しいわね、貴方が私を呼び止めるなんて」「何だよ。嫌味のつもりか?」ギスランの顔に不機嫌そうな表情が浮かぶ。「別に嫌味のつもりじゃないけれど……私に何の用かしら?」「実は、オリビアに聞きたいことがあるんだが……昨夜、フォード家に電話を入れたんだよ」「え? 電話? そんな話、知らないわよ?」「知らないのは当然だろう。何しろ、俺はシャロンに電話を繋いでもらうためにかけたんだから」「え? シャロンに?」婚約者のオリビアを前にして、悪びれる素振りも無く堂々と語るギスラン。(仮に
—―翌朝 静かなダイニングルームに向かい合わせで座るランドルフとオリビアは無言で食事をしていた。ランドルフは先ほどからチラチラとオリビアの様子を伺っている。娘に話しかけるタイミングを計っているのだが、オリビアは視線を合わせる事すらしない。何とか会話の糸口をつかみたいランドルフは、そこで咳払いした。「ゴ、ゴホン!」「……」しかし、オリビアは気にする素振りも無く食事を続けている。ついに我慢できず、ランドルフは声をかけた。「オ、オリビアッ!」「……はい、何でしょう」顔を上げるオリビア。「どうだ? オリビア。今朝の朝食はお前の好きな料理を用意したのだが……美味しいかね?」「はい、美味しいです。ですがこのボイルエッグも、ブルーベリーのマフィンにグリーンスープはシャロンの好きなメニューではありませんか?」「何? そうだったか?」「ええ、そうです。私は卵料理なら、オムレツ。ブルーベリーのスコーンに、オニオンスープが好きです。尤も、一度もお父様に自分の好きな料理を聞かれたことはありませんので、ご存じありませんよね?」「そ、そうか……それはすまなかったな」途端にしおらしくなるランドルフ。「いえ、私は何も気にしておりませんので謝る必要はありません。それにどの料理も全て美味しいですから」「本当か? なら良かった。だが、オリビア。今回の件で私は良く分かった。この屋敷の中で、まともな家族はお前だけだということをな。今まで蔑ろにしてきた私を許してくれるか? これからは心を入れ替えて、お前を尊重すると約束しよう」「はぁ……」オリビアは呆れた様子で父親の話を聞いていた。(一体今更何を言っているのかしら? 生まれてからずっと、私の存在を無視してきたくせに。もうこれ以上話を聞いていられないわ。丁度食事も終わった事だし、退席しましょう)「お父様。食事もおわりましたし、これから大学へ行くのでお先に失礼します」椅子を引いて席を立ったところで、ランドルフが呼び止める。「ちょっと待ってくれ! オリビアッ!」「何でしょうか? まだ何かありますか?」内心辟易しながら返事をする。「ああ、ある。昨夜の件の続きだが……頼むオリビア! この間お前が食事してきた店を教えてくれ! この通りだ! 最近新聞社から、催促されているのだ! 若い世代に人気の定番料理に関するコラムを書い
「分かりました。お父様とどのような話をしたのか、お話いたします」「そうよ! 早く言いなさい!」ゾフィーは身を乗り出してきた。「ですが、その前に条件があります。その条件を飲んでくれない限り、お話することは出来ません」「どんな条件よ? お金でも欲しいのかしら? いくら欲しいのよ」「お金? そんなものは別にいりません。条件は一つだけです。私の話が終わったら、一切の質問もせずに即刻この部屋を出て行って下さい。いいですか?」「分かったわよ。それじゃ、どんな話をしていたのか言いなさい!」膝を組み、腕を組む。何処までも高飛車な態度のゾフィー。「お父様は、言ってましたよ。もう我が家は家庭崩壊だ、あんな家族と一緒の食事は楽しめないからごめんだと。これからは私と2人で食事をしようと提案してきたのです」(もっとも、そんな提案私はお断りだけどね)その話に、見る見るうちにゾフィーの顔が険しくなっていく。「な、な、何ですって……? ランドルフがそんなことを……? ちょっと! それは一体どういう……!」「そこまでです!」オリビアはゾフィーの前に右手をかざし、大きな声をあげた。その声に驚き、ゾフィーの肩が跳ねあがる。「ちょ! ちょっと! そんな大きな声を上げないでちょうだい! 驚くでしょう!?」「そこまでです。先ほどの私との約束をもうお忘れなのですか? 話を聞いた後は一切の質問もせずに即刻この部屋を出て行くと言う約束を交わしましたよね?」「う……お、覚えているわよ!」「だったら、今すぐ出て行って下さい。何か言いたいことがあるなら私にではなく、父に言っていただけますか?」「な、何ていやな娘なの!? ランドルフに聞けないから、お前の所に来たっていうのに……!」「頼んでもいないのに、勝手にこの部屋に来たのはどちら様でしょうか? とにかく、約束は守って頂きます。今すぐに出て行って下さい」オリビアはゾフィーを見据えたまま、部屋の扉を指さした。「くっ! オリビアのくせに生意気な……! ええ分かりましとも! 出て行くわよ! 出て行けば良いのでしょう!? 全く……ちょっとランドルフに贔屓にされたからって、いい気になって!」椅子に座った時と同様に、ガタンと大きな音を立ててゾフィーは立ち上がった。「……お邪魔したわね!」「ええ、そうですね」睨みつけるように見下ろすゾ
「ふぅ……今日は充実していたけど、何だかとても疲れた1日だったわ。こんな時はアレね」入浴を終えて、自室に戻って来たオリビアは事前にトレーシーが用意してくれていたワインをグラスに注いで香りを楽しむ。「フフ、いい香り」カウチソファに座り、アデリーナが勧めてくれた恋愛小説を手に取った時。—―ガチャッ!乱暴に扉が開かれ、義母のゾフィーがズカズカと部屋の中に入ってくるなり怒鳴りつけてきた。「オリビアッ! 一体今まで何処へ行っていたの! 私は何度もこの部屋に足を運んだのよ? 手間をかけさせるんじゃないわよ!」いきなり入って来たかと思えば、耳を疑うような話にオリビアは目を見開いた。「は? ノックもせずに部屋に入って来たかと思えば、一体何を言い出すのですか? まさか人の留守中に勝手に部屋に出入りしていたのですか?」「ええ、そうよ! これでも私はお前の母なのよ! もっとも血の繋がりは無いけどね。娘の部屋に勝手に入って何が悪いのよ」ゾフィーは文句を言うと、向かい側の席にドスンと腰を下ろした。「血の繋がりが無いのだから、私たちは他人です。大体、今まで一度たりとも私を娘扱いしたことなど無かったではありませんか!」「おだまり! オリビアのくせに! 戸籍上は親子なのだから、私はお前の母親なのよ! その親に対して口答えするのではない!」「はぁ? 今朝、散々シャロンに罵声を浴びせられていましたよね? そのセリフ、私にではなく、むしろシャロンに言うべきではありませんか?」「シャロンは部屋に鍵をかけて、閉じこもってしまったのよ! 取りつく島も無いのよ! 今はそんな話をしに来たわけじゃないわ。オリビアッ! お前、一体私たちに何をしたの! 何の恨みがあって、家庭を崩壊させたのよ!」あまりにも八つ当たり的な発言に、オリビアは怒りを通り越して呆れてしまった。「一体先程から何を言ってらっしゃるのですか? 意味が分かりません。大体元からいつ壊れてもおかしくない家族関係だったのではありませんか? そうでなければ簡単に崩壊したりしませんから。念の為、言っておきますが私には全く関係ない話です」「関係ないはずないでしょう!? さっきも父親と2人きりで楽しそうに食事をしていたでしょう? 一体何の話をしていたの! 言いなさい!」ビシッとゾフィーは指さしてきた。「あぁ……成程。つまり私と
「はぁ、そうですか……」別にありがたみもない提案に、適当に返事をするオリビア。(さっさと食事を終わらせて、早々に席を立った方が良さそうね)無駄な会話をせずに食事に集中しようとするオリビアに、父ランドルフは上機嫌で色々話しかけてくる。煩わしい父の言葉を「そうですか」「すごいですね」と、適当に相槌を打って聞き流していたオリビアだったのだが……。「ところでオリビア、昨日町へ1人で食事へ行っただろう? 何という店に行ったのだ? 私にも教えてくれ。是非その店に行ってみたいのだよ。私が行けば店の宣伝にもなるしな」この台詞に、オリビアは耳を疑った。「……は?」カチャンッ!手にしていたフォークを思わず皿の上に落としてしまう。「どうした? オリビア」娘の反応にランドルフは首を傾げる。「お父様、今何と仰ったのでしょうか?」「何だ、よく聞きとれなかったのか? 昨日お前が食事をしてきた店を教えてくれと言ったのだが」「そうですか……では、そのお店に行かれた後はどうなさるおつもりですか?」オリビアは背筋を正すと父親を見つめる。「それは勿論食事をするだろうなぁ」「なるほど、お食事ですか……それで、その後は?」「は? その後って……?」まるで尋問するかのような口ぶり、いつにもまして鋭い眼差し……ランドルフはオリビアから、何とも形容しがたい圧を感じ始めていた。「答えて下さい、食事をした後の行動を」「そ、それは……味の評価を書く為に記事を書くだろうな……」(な、何なんだ……オリビアの迫力は……当主である私が娘に圧されているとは……)いつしかランドルフの背中に冷たい物が流れていた。そんなランドルフにさらにオリビアは追い打ちをかける。「はぁ? 記事を書くですって? 一体どのような記事を書くおつもりですか?」「そんなのは決まっているだろう。美味しければそれなりの評価を下すし、まずければ酷評を書くだろう。何しろ、こちらは金を支払って食事をするのだから当然のことだ。私の責務は世の人々に素晴らしい料理を提供する店を知ってもらうことなのだから」娘の圧に負けじと、ランドルフは早口でぺらぺらとまくしたてる。「お店から賄賂を受け取って、ライバル店をこき下ろすことがですか?」「う! そ、それは……ほんの特例だ! あんなことは滅多に起こらないのだよ!」「滅多にどころ
—―18時 オリビアは自室で大学のレポートを仕上げていた。このレポートは単位に大きく関わってくる。アデリーナの助言によって、大学院進学を決めたオリビアにとっては重要なレポートだ。「……ふぅ。こんなものかしら」ペンを置いて一息ついたとき。—―コンコンノック音が響いた。「誰かしら?」大きな声で呼びかけると扉がほんの少しだけ開かれて、トレーシーが顔を覗かせた。「オリビア様……少々よろしいでしょうか?」「ええ、いいわよ。入って」「失礼します」かしこまった様子で部屋に入って来たトレーシーは深刻そうな表情を浮かべている。「トレーシー。どうかしたの?」「あの、実は旦那様がお呼びなのですが……」「え? お父様が?」今迄オリビアは個人的に父に呼び出されたことはない。ひょっとすると、今朝の出来事で何か咎められるのだろうか……そう考えたオリビアは憂鬱な気分で立ち上がった。「分かったわ。書斎に行けばいいのね?」「いえ、違います。ダイニングルームでお待ちになっていらっしゃいます」「え? ダイニングルームに?」「はい、そうです」「おかしな話ね……今まで食事の時間に呼ばれたことはないのに」「そうですよね……」オリビエとトレーシーは顔を見合わせた——**「お待たせいたしました。お父……さ……ま?」ダイニングルームに入ってきたオリビアは驚いた。何故なら真正面に父——ランドルフが満面の笑みを浮かべて待ち受けていたからだ。父の左右には給仕を兼ねたフットマンが立っている。しかも、いつも着席しているはずの義母、シャロン、兄ミハエルの姿も無い。「おお、待っていたぞ。オリビア、さぁ。席に着きなさい」ランドルフは自分の向かい側の席を勧めてくる。「はぁ……失礼します」そこへ、スッとフットマンが近づくとオリビアの為に椅子を引いた。これも初めてのことだった。何しろこの屋敷の使用人達は全員オリビアを見下していたのだから。「……ありがとう」慣れない真似をされたオリビアは落ち着かない気持ちで礼を述べる。「いいえ、とんでもございません」ニコリと笑うフットマン。……彼は今まで一度もオリビアに挨拶すらしたことが無い使用人だ。「よし、それでは早速食事にしようか?」ランドルフの言葉と同時にワゴンを押したメイドが現れ、次々に料理を並べていく。どれも出来たて